吉原木工所の歩み
 
[ 昭和33年~ 創業当時 ]
 「目の前にお客様がいたら、木のことなら何でもやる。」
それは木工職人として地域に生きることを決意した私の父・重文の、吉原木工所としてのモットーでもありました。
 創業当時、お客様からのご注文の主流は建具と婚礼家具でしたが、依頼があれば壁板や天井の張り替え、古箪笥の修理、葉釜(はがま)のフタまで、木で作るものならどんな仕事もこなしました。車が無かった当時は「オイコ」とよばれる農具を使い、つくった製品を背負ってお客様のところまで歩いたと言います。

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 「百姓で忙しい親父に頼みこんで、一本ずつタンスを担いであの山を歩いたんだ。帰り道は真っ暗で、寂しさを紛らわすために歌いながら帰ったよ。親父ときたら、おっそろしく音痴でなぁ(笑)…。」

 
[ 昭和58年~ 絶望の淵に立たされた58水害 ]
 地域に指物(さしもの)職人が居なかったこと、更には高度成長という時代の追い風もあり、昭和40年頃から仕事はぐんぐん忙しくなります。職人を雇えるまでになり、機械も少しずつ導入。四苦八苦しながらも父は事業に確かな手ごたえを感じていました。

 そんな矢先のこと、吉原木工所に大きな事件が起こります。
昭和58年7月、降り続く豪雨の影響で三隅の街は歴史的な大水害となり、三隅川の激しい氾濫流に襲われた住家の流失・全壊130棟など町全体で壊滅的な被害を受けました。山間部の室谷地区も巨大な土石流が発生し、作業場に大きな爪痕残したのです。

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 降りしきる大雨の中、危機迫る思いで作業場を片付けていると突如裏山からの異様な地鳴りと揺れが父の体に伝わりました。次の瞬間、大量の土石流が勢いよく作業場の壁を破って流れ込んできたのです。
 あわや間一髪のところで父は九死に一生を得たものの、工場の半分以上が一瞬のうちにがれきとなり、このとき主たる機械のほとんどが流出。ごうごう恐ろしい音とともに流されていく大切な機械たちを父は目の当たりにしたと言います。

 「あのときは身を引き裂かれる思いだった。わしも一緒に連れていってくれ・・ 本気でそう思った。」 

(最大1時間雨量90mm,総雨量500mmでした。島根県における死者数は107で,その大部分が斜面崩壊によるもの。)

 
[ 昭和60年~ 新たな出発・ブータンより研修生の受け入れ ]
 58水害を機に父はある決断をします。県道に面した唯一の田んぼに新しく工場を建てたのです。
 それまでは道幅も狭く、材料も手運びだったことから、新工場には材料置場を作りました。作業スペースもぐっと広くなり、比較的大きな仕事が受注できるようになったのもこの頃からになります。
  不撓不屈の精神。二度目の挑戦はまさに吉原木工所として、新たな出発でもありました。
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 三隅町には古くから紙漉きの産業があり、この伝統ある「石州和紙」を通じてブータン王国と国際交流がありました。
 平成5年と9年には、和紙・木工技術研修員の受け入れ事業としてご推薦をいただき、吉原木工所ではブータン王国から研修生を受け入れました。

 ブータン人はとても真面目で人懐っこく、日本の技術を熱心に学ぶ姿勢、懸命に働く姿に、地域の誰もが共感し心を打たれました。国や文化は違っても、思いやりと誠実さが人と人とをつなぐこと。人として生きてゆくうえで最も大切なことを、国際交流を通じて学びました。

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[ 2012年~ 伝統を未来へつなげる ]
 創業より50年以上の長きにわたり、地域の方々をはじめお客様方に温かく支えられ、吉原木工所は歩んできました。おかげさまで現在では最新の設備を整え、一般住宅だけでなく店舗装飾や公共施設における家具・建具工事もこなせるようになりました。

 平成24年11月、父・重文から二代目へと受け継ぎ、吉原木工所は新体制となりました。新たな気持ちと一層の覚悟をもって、日々の業務ものづくりに臨んでいます。

 激変の時代といわれる今、日本のものづくりはその真価を問われています。
 先人が培ってきた技術・知恵・伝統をきちんと受け継ぎ、それを未来へとつなげること。
 今を生きる職人のかけがえのない使命を抱き、これからのものづくりに務めていきたいとおもいます。

 

平成24年6月 有限会社 吉原木工所
代表取締役 吉原文司

 
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